詰将棋界に復帰して、10年を経過した。この間に、詰パラ入選も百回となり、その記念作には、思いがけないほど多くの方から解答を頂き、本当にありがたかった。これからも一歩一歩、地道に前進して行きたい。
旧詰パラには10余作掲載されたが、これは現行制度になってからの入選回数に計上されないので、入選第1回は31年5月号、自分ではすっかり忘れていて、岡田敏氏に教えて頂いた。ただし、これは冬眠に入る前の作。入選第2回は43年7月、通巻百五十号記念の「久しぶりの登場」という企画に加われと、故鶴田主幹から命じられたものだが、参加しただけの凡作だった。
結局、実際の復帰は54年になる。冬眠から目覚めた男が、以後、どういう道をたどったか。その歩みを見て頂くことにした。19手詰までの短編に限定したし、創棋会作品集「金波銀波集」と重複しないように選んだので、ベスト10というよりも、ささやかな軌跡の一端、と思って下さい。
第1番 詰将棋パラダイス S54・9
23金、同龍、11金、同玉、14龍、13金合、21歩成、同玉、23龍、同金、11飛、32玉、42金、33玉、31龍迄15手詰。
詰パラの表紙に初登場した作。表紙は作家のあこがれの場所で、復帰第一作のわずか3ヵ月後に採用されるとは夢のようだった。あの感激は、いつまでも忘れたくない。もちろん鶴田主幹の、励ましを込めたご配慮である。
42金から31龍という、奇妙な味の詰上りが狙い。14龍に13金合も、復帰早々にしては巧く作れた部類だろう。初手23金に同玉は24金以下、早い。
創棋会(当時は壮棋会)の例会で、棋友諸氏に見てもらい、吉田健氏に勧められて、表紙用に投稿してみる気になった。しかし、発表図は64龍が54にあったので、11金、同玉、21歩成、同玉、51龍以下の難解な余詰が発生。あの時の残念さも忘れられない。
第2番 将棋ジャーナル S55・3
48金、同玉、57馬、59玉、49金、同玉、48金、39玉、49金、同玉、39金、59玉、68馬迄13手詰。
易しいが、初の持駒一色。壮棋会の課題「持駒金または銀4枚」に挑戦して作ったら、不要駒を置くなどの未熟さを指摘され、修正してジャーナル初入選となった。張り切って、いろんな狙いを試みていたころが懐かしい。
第3番 詰将棋パラダイス S55・6
28飛、19玉、18飛、29玉、38銀、18玉、29銀、19玉、28角左、29玉、73角成、38玉、36飛、27玉、37馬、17玉、16飛、同玉、26馬迄19手詰。
「15〜59の範囲内で作れ」という課題作。私の無防備第1号にもなった。39角がなければ1手詰だが、この角で玉を詰める。自分では大変好きな作。創棋会作品集「白雨」にも入れた。
第4番 近代将棋 S56・5
62歩成、同金、52歩、同金、61飛、42玉、54桂、同歩、53龍、同銀、33角、同桂、31飛成、同玉、32金迄15手詰。
3手目52歩に対する変化が厄介(同玉は74角以下。61玉は83角以下)。やはり私らしさは出ている。主眼は9手目53龍で、既成手とは言え、強手。
近将にも昔は入選したが、復帰後は初めて。森田正司氏の勧めによる。
第5番 将棋世界 S57・11
37銀、39玉、38金、同玉、47角、同と、27龍、同玉、16角迄9手詰。
世界誌の付録「新作詰将棋39局」に採用されたもの。担当の野口益雄氏に「捨駒に冴えがある」と解説され、嬉しかったことをおぼえている。
このころは、塩沢雅夫氏担当の詰パラ「小学校」に投稿するなど、ヒトケタも何とか作るようになっていた。
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